こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第五十八代:光孝天皇(こうこうてんのう)の後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)

 


 

光孝天皇の陵は、京都市右京区の宇多野馬場町にありました。宮内庁上の形式は円丘です。「小松山陵(こまつやまのみささぎ)」ともよばれています。埋葬地の確実性は薄いようです。

 

 

光孝天皇は、仁明天皇の子で文徳の弟です。文徳の直系である清和・陽成の後に即位したのですが、系図を見ての通り、もともと天皇となる予定はありませんでした。これは清和天皇の后で、陽成天皇の母である高子と、その兄である摂政・藤原基経との対立が原因でした。

 

基経と高子は同母の兄妹です。基経は藤原良房の後継として若いときから才覚を伸ばし、摂政まで昇りつめました。高子は清和天皇の皇后になり、陽成天皇を産みます。兄妹の仲が悪くなったのは、基経に原因があります。

 

高子の夫である清和天皇は、女関係が盛んで、あちこちで子供を産ませていました。そんな女好きの天皇に、基経は自分の娘を2人も入内させます。そして陽成天皇が即位して元服したときも、基経は自分の娘を入内させて外孫の誕生を望みました。

 

当時の藤原家は、天皇に自分の娘を嫁がせることで、政権内での立場を強固にしていました。それが当たり前だったとしても、高子にも女性のプライドがあったでしょう。自分の夫や自分の息子に、娘をあてがってくる兄に腹が立つのも仕方がありませんね。

 

高子と基経の対立が、実際にどのようなものであったかの想像ですが、たぶん陽成は母親から基経の悪口をいっぱい吹きこまれて、基経と距離を置くようになったのではないかと思います。しかし残念ながら、実際に権力を持っていたのは天皇よりも藤原基経のほうでした。対立の結果、陽成天皇は退位させられて、かわりに光孝天皇が即位します。

 

陽成天皇が退位する理由というのも、穏やかではありませんでした。陽成の乳兄弟であった源益という青年が、天皇の傍で仕事をしていましたが、突然何者かに殴殺されるという殺人事件が起きます。陽成天皇が疑われ、犯人であったのか何かの事故であったのか、それとも基経の陰謀で別に犯人がいたのか、真実はわかりません。宮中で人が死ぬという大事件を基経から責められて、陽成天皇は退位させられることになりました。

 

突然次期天皇として引っ張り出された光孝天皇は55歳。それまでは政治と関係のない世界にいた親王です。和歌・和琴などに秀で、諸芸に優れた文化人でもあったとされます。即位後も、不遇だったころを忘れないよう、かつて自分が炊事をして、黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、という話があります。光孝天皇は、宮中行事の再興に務めるとともに、親王時代に相撲司別当を務めていた関係で相撲を奨励しています。ただ在位は3年ほどしかありませんでした。亡くなる前に自分の子供を皇太子にして皇位を譲ります。

 

基経は関白として、先代に引き続いて政務を担当しました。光孝天皇は基経に全ての権力を与えました。自分を天皇にしてくれた基経に対し感謝していたといいます。ちなみに上皇になった陽成はものすごく長生きしました。上皇であった期間は65年で歴代一位です。