こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第六十四代: 円融天皇(えんゆうてんのう)の後村上陵(のちむらかみのみささぎ)

円融天皇陵は、京都市右京区宇多野福王子町にある後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)に治定されています。父である村上天皇の陵の近くです。

 

先代で兄の冷泉天皇陵が、かなり離れた場所にあるのに対し、円融天皇陵はすぐ近くです。

 

 

円融天皇の在位は、969年から 984年の15年間。村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟になります。


兄である冷泉天皇が即位の後、次期皇太弟をめぐり藤原氏と左大臣源高明が対立しましたが、9歳の守平親王(円融天皇)が立太子しました。2年後に冷泉天皇が譲位し、円融天皇が即位します。

 

円融天皇は即位時、まだ数え11だったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼が摂政に就任。やがて実頼が亡くなり、藤原伊尹が摂政を引き継ぎます。

 

円融天皇が元服を迎えると、その直後に伊尹が死去。その弟の兼通と兼家の間で関白職を巡って争いが始まったが、天皇は兼通を関白に任じます。

 

当初は、円融天皇は兄・冷泉上皇の子が成長するまでの中継ぎ天皇とみなされてました。息子の懐仁親王の立太子を条件に兄・冷泉帝の皇子・師貞親王に譲位します。

 

譲位後は悠々自適。和歌を愛好し、『拾遺集』以下の勅撰集に24首入集。ほかに『円融院御集』も伝わります。

 

藤原氏の勢力争いは激しさを増しますが、その一方で平安文化が成熟していく時代だったのでしょう。