こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第五十九代:宇多天皇(うだてんのう)の大内山陵(おおうちやまのみささぎ)

宇多天皇の大内山陵は、先代の光孝天皇の陵の北方1Kmのところにありました。

道路のヘアピンカーブ脇に山道の登り口があります。車一台くらいの駐車スペースがあります。山道は車の通行も多く、ここまで歩いて登ってくるのは大変ですね。

山道はあまり整備されていませんので、革靴やヒールでは登れません。

途中見晴らしのいい場所もあります。

見慣れた宮内庁の看板がありました。

山中にあるひっそりとした陵です。バイクを停めた場所から2~30分ほど。

 

久しぶりの登山気分でしたが、距離はそれほどでなかったので、きつくはありませんでした。道の整備状況をみると参拝する人はあまりいないのではないかと思います。

 

宇多天皇は光孝天皇の第七皇子となります。

 

光孝天皇は、先代の陽成天皇が藤原基経によって退位させられた後に即位しました。光孝天皇は、自分の後は清和天皇の嫡流(陽成の弟等)に戻るだろうと考えていましたので、皇子皇女は源姓を名乗らせ臣籍降下させてました。宇多天皇はもともと陽成天皇に王侍従として仕えていました。

 

光孝天皇は、皇太子を立てることのないまま、即位3年後に重態に陥ります。基経は妹の高子(清和天皇の妻/陽成天皇の母)と仲が悪かったので、嫡流に戻さずに光孝天皇の息子である定省(宇多天皇)を皇族に復帰させて皇太子にたてました。

 

光孝天皇はとても喜んだそうです。陽成は「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っています。陽成はものすごく長生きしたので、復位を画策しているという風説は、宇多天皇を悩ませました。

 

宇多天皇は、菅原道真を引き立て、出世させた天皇としても有名です。菅原道真は右大臣まで出世し、藤原時平の陰謀によって九州大宰府に左遷させられ、やがて怨霊となって時平を呪い殺したと恐れられました。

 

と、それくらいしか菅原道真のことを知らなかったので、一冊本を買って読んでいます。菅原道真を知るなかなかの良書。新書や文庫などの安い歴史本は、著者の思い込みが激しかったり、調査が偏ったりして、がっかりすることも多いのですが、情報がしっかり整理されていて、わかりやすい本です。

 

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知らなかったのは、空海・最澄が、唐に行ったときに、遣唐使として同行した菅原清公は、道真の祖父でした。我々の身近なところとして、それまで和風だった人名のつけ方を唐風に改めた人です。例えば、男子の場合「坂上田村麻呂」の「田村麻呂」のような形式から「菅原道真」の「道真」といった二文字訓読みか「信」など一文字訓読みに、女性の名前の「○子」という形式にすることを建言しました。

 

道真に関しては、マンガ「応天の門」が面白くて、興味をもちました。しばらく勉強ネタが続いて楽しいです。