こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第六十七代:三条天皇(さんじょうてんのう)の北山陵(きたやまのみささぎ)

三条天皇陵は、龍安寺から金閣寺へ向かって移動し、少し北西の場所にありました。

 

住宅地の中にあります。山の手の高級住宅街です。

 

三条天皇は第六十七代の天皇です。

 

六十三代冷泉天皇の第二皇子として生まれ、六十五代花山天皇の異母弟になります。先代の一条天皇の従兄にあたります。従兄に譲位するというパターンはよくありましたが、兄が既に天皇になっている弟へ、というのは珍しいです。

 

なにがどうしてこうなったのか、Wikiを読んでも頭に入ってこないので、藤原家と天皇家の家系と婚姻をまとめてみました。

 

三条天皇の母は藤原兼家の長女超子です。兼家から見ると、孫の一条天皇から孫の三条天皇に譲位させたということになります。花山天皇は兄の孫だから、兄弟としては弟のほうが可愛いということですね。

 

三条天皇は、兼家に容姿が酷似していたこともあり、兼家から可愛がられていたようです。

 

また兼家は冷泉・円融天皇に娘を入内させていましたが、円融天皇と不仲であったこと、冷泉天皇は超子との間に3人の親王を儲けていたことから、冷泉系をより重要視していたとあります。

 

この時代の藤原の有力者は、娘を天皇に入内させて立場を強化していました。近親婚も多かったので、冷泉天皇の頭が〇〇だったのはそのせいかもしれません。

 

三条天皇は、藤原の道長の娘を入内させています。兼家の孫同士ですね。藤原氏と天皇家の一体化がよくわかります。

 

図を書いていて、兼家と道長が似ていることに気が付きました。兄がいて出世が妨げられていたこと、姉が天皇に入内していること、娘も天皇に入内させていることなどです。道長が祖父のやり方を見習っていたのかもしれません。

 

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」

 

という有名な歌があります。藤原道長の詠んだ歌です。「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」と満足した歌ですね。当時の藤原氏の全盛をあらわしています。

 

三条天皇は即位後に次第に道長との関係が悪くなっていき、6年余りで退位することになります。天皇も藤原の有力者との関係が悪いと、立場が弱くなったのです。しかしそんな藤原氏の天下も永遠には続きませんでした。