こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

柏原市立歴史資料館

大阪在住の私は、休日によく奈良方面にツーリングに行きます。大阪市内から下道だけを走って奈良へ行くと、時間がかかってしまうため、だいたい生駒山の中央を通る阪奈トンネルを通る第二阪奈道路か、松原JCTを通って西名阪自動車道か、あるいは美原北ICを経由して南阪奈道路を使って、手っ取り早く奈良に入ります。

 

先々週、奈良へ行くにあたって、ちょっと違う道を使ってみるか、と地図を見ながら検討していました。飛鳥に都が存在した当時は、難波宮の近くに港があって、瀬戸内海を通ってやってきた大陸人は、大和川沿いに大阪と奈良とを行き来していたみたいです。

 

そしてそれらの関連展示が、柏原市の柏原博物館にあるというので、途中寄ってみることにしました。柏原博物館は、松原JCTの手前の大堀から高速を降りて、大和川沿いに西へ走ってすぐのところです。この道は初めて走りましたが、私の好きな川の堤防の上の道で、短いですが見晴らしが良くて、バイクでは最高に気持ちいい道でした。

 

 

高井田駅の横の坂を上り、右折して住宅街の中へ入ると博物館はあります。看板は見落としやすいので、先に地図で場所を確認しておいたほうがよいです。

 

この辺り、特に川を挟んで南側は、古くは、奈良と大阪の間にある玄関口的な場所で、昔は安宿部郡というものがあり、朝鮮から渡ってきた渡来人が多く住んでいた地域らしいです。昔の日本の王朝は、朝鮮と関わりも深かったですからね。旧安宿部郡には、その時代の古墳や、様々な出土品があり、柏原博物館はそれらを研究したり、紹介する施設のようです。

 

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こじんまりとした二階建ての鉄筋の施設です。住宅街にあってあまり博物館らしくありません。

 

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施設は無料で入れます。古墳マニア以外には行きそうもないですね。近所の遺跡の紹介の地図看板がありました。奈良に有名な遺跡があるため、大阪府の柏原市はあまり注目はされていません。私が知らないだけかもしれませんが。

 

 

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古墳から出土したものが飾られています。このトーテムポールみたいなのは鰭付楕円形円筒埴輪というものらしいです。安宿部郡にある松岳山古墳のものです。初期古墳時代の大阪側に住んでいた豪族のものです。

 

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渡来人が住んでいた地域なので、弥生式土器、鉄器、銅鏡などの出土品が主に多くあります。

 

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興味を引いたのは銅鏡。同じデザインのものが中国地方や九州地方にあるので、遺跡から人の流れや文化の共通性が推測できるわけですね。

 

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私は考古学や古代の歴史に関しては、知識量が少なくて、全くの素人です。ただ興味はあるので、大和朝廷の成り立ちが、考古学によってもっと解明されればいいのにな、と素人ながらに思います。それを明らかにする道は、ここに展示されてあるような、天皇家が台頭する前の豪族に関する調査がもっと進めばいいのにと思いました。

 

その解明は、大阪にある古墳の発掘をもっと徹底的に行えば、今よりも判断材料は増えると思うのですが、宮内庁が管理している古墳は、天皇家の陵墓ということで発掘調査が規制されているようです。昔盗掘にもあっていたでしょうし、今は陵墓の上に草木が生え茂っていて、調査をすると環境が破壊されるというリスクも確かにあるでしょうけど、金属探知機や超音波装置でなんとかなりませんかね。

 

それとも、宮内庁ならびに国家主義系の勢力は、大和朝廷の歴史を明確にすれば、朝鮮からの渡来人による勢力拡大や、天皇家の台頭の流れなどがわかってきて、もしかしたら天皇家のブランドが今よりも低下するのを恐れているのでしょうか。

 

歴史の真実へ近づくのと、天皇を象徴とする国民のナショナリズムの啓蒙との、どちらが日本国家の国益になるのか、私にはわかりません。しかし歴史を知るにしたがって、純粋にもっと正しい歴史を知りたいという気持ちは芽生えてきます。歴史なんて興味がなかったら、真実なんてどうでもいいんですから。

 

なんだか今の状況は、もったいない気がしますね。昭和時代の考古学は、もっと盛り上がっていたような。税金から研究活動費をもらっている学者さんは、いろいろジレンマもあるとは思います。好きなことして給料もらって家族を養っているのだったら、スポンサーの政府とか役所のご機嫌を損なわないように、学説や言動においての配慮も当然ありますよね。でもそこは頑張ってもらいたい。真実を追求することは結局みんなから支持されることだと思うのです。

 

関西にこれだけの史跡の文化があるのに、インバウンドのコンテンツ以外の興味を持つ人が減ってきてるのは、何か大事なところにヴェールがかかってしまっているのを、みんな薄々感じているからなのかもしれません。

 

最近、黒岩重吾の本が面白いなと思って、探しているのですが、ほとんど売ってなくてあんだけ古代ブームだったのに、最近は読む人いないんだろうな、と思います。若い人も、若い作家も、前世代にさんざん食い散らかされてきた歴史小説ジャンルよりも、ラノベ系ファンタジーのほうが楽しいのでしょう。ラノベ批判じゃないですよ、知的にも美的にも楽しめる素材がいっぱいあるのに、なんだかもったいないね、と思うだけなのです。

 

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壺などの出土品は、先日いった兵庫県立考古博物館がかなり本格的で、物量も多くお腹一杯になりましたから、柏原博物館での展示物に驚くことはあまりなかったのですが、大和川の付け替え工事の展示があって、この件は初めて知りました。昔の大和川は、柏原市で石川と合流し、生駒山と上町台地の間を北上して淀川と合流し、大阪湾に流れていたのですね。1700年代に今の大和川の形で堺のほうに流れるようにしたらしいです。

 

大阪の昔は湿地帯、デルタ地帯で治水が大きな課題で、江戸時代からの公共事業が繰り返された結果、今の大阪平野がつくられたわけで、昔の地図を見ると今と全く違う地形であるのに驚きますね。上町台地と湿地帯の地形が大阪の基本骨格を作ったのです。地名もそれに関連しています。河内という地名からそうですね。

 

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地形大改造のための公共事業が盛んであったというのも、大阪に人が集まり、活気が生まれていた要因のひとつであったのでしょうか。商売だけではなかったのでしょう。そして、大阪府や大阪市が公共事業で失敗してきたのも、昔からの伝統なのかも。(笑)