こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第二十代:安康天皇(あんこうてんのう)の菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)

安康天皇の陵墓は第二阪奈道路の奈良側出口の近くにあります。ちょっと入り組んだ場所にあるので、クルマで行く場合は少し大変かもしれません。バイクで行くと、細い路地でも安心して走れますので大丈夫でした。

 

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 古墳の形はわかりません。城郭であったという話もあります。

 

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住宅地の中にある公園といった感じです。

 

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古事記によると、安康天皇は19代允恭天皇の第二皇子です。第一皇子の兄は、妹と近親相姦していたため、允恭天皇が亡くなると皇太子ではなくなり、四国の愛媛県に流されてしまいます。

 

兄がいなくなって第一皇子となり即位しましたが、弟に嫁をもらうために叔父へ使いにやった部下が出鱈目を言ったことから叔父を殺害してしまいます。この時代は兄弟が天皇の後を継ぐことがありましたから、自分が即位したのを快く思っていないと理解してしまったのです。でも実は忠誠の証の宝物を、部下が横取りしたかったため、嘘の報告をしたのでした。

 

そして自分が殺した叔父の奥さんを自分の皇后にします。もしかしたらもともと横恋慕していたのかな。その皇后には叔父との間の連れ子がいました。その子が7歳のときに、「あいつの父親を殺したのは俺ってバレたらヤバいよね。」と皇后に相談していたところを、床下で遊んでいたその子が聞いていました。そして父親の復讐のために、天皇が寝ているときに首を切って殺害してしまうのです。安康天皇が即位して三年後のことでした。その後、弟がその連れ子も含め、多くの皇族を殺害して第二十一代の雄略王として即位しました。

 

古事記というのは、天皇血統の正当性を正当化するための物語のはずなのですが、権力争いや恋愛などで、ドロドロした話が多いのです。天皇家を神格化する話ばかりではないので、これは完全に創作だ、といえない微妙なところがあります。

 

大化の改新以前の歴史文書は、蘇我氏が滅んだ時に焼失してしまったとされていて、古事記がどのようにしてまとめられたのか、ミステリーです。ただ現代の考古学では、古事記の内容を使って古墳時代を分析しようとする学者さんはいないとか。私も古事記はファンタジーであって、律令制度前の古墳時代は完全な中央集権体制はなかったと思っています。