こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

叡福寺

歴史というのは、ときの権力者によって都合よく書き換えられているので、事実と異なっているものです。日本書紀や古事記は日本の古代史を記したものですが、いろいろとおかしな部分がありますので、全て事実であると考えている歴史学者はいません。ただ、何が正しいのかも今となってはわからないので、いろんな説があるにしろ、まあそういうことにしておこう、という空気もあるのだろうと思います。


しかし、明らかにおかしいことは修正するべきだ、という真面目な熱い歴史学者もいて、新しい説に説得力があったりすると歴史の解釈が変わってきて、教科書が変わることがあります。最近では、なんと聖徳太子という名前が教科書から消えるかも、という記事を読みました。


聖徳太子といえば旧一万円札の肖像にも使われた日本古代史の偉人とされています。推古天皇を助けて、遣隋使を派遣し、冠位十二階や十七条憲法をつくり、天皇を中心とする中央集権国家の基礎をつくった人とされています。仏教を積極的に日本へ導入した人としても知られています。四天王寺や法隆寺との関わりも深いです。10人に直訴された内容を同時に聞き取ったエピソードなんかもあって、聖徳太子ってすごい人で頭良かったんだなあ、と我々は教えられてきました。

 

その聖徳太子が実在しなかった、という説が今は主流になりつつあるらしいとか。天武天皇時代に天皇家の血筋を正当化するために、実在した厩戸皇子をモデルにして、天才的な先祖像をつくりあげたらしいですね。仏教伝来とかいろんな功績は蘇我馬子の実績だったのに、中臣鎌足の次男である藤原不比等が、天皇家に都合よく日本書紀を編纂したとか言われています。

 

現代でも、北朝鮮のニュースとか見てると、金日成を神格化するために、いろんなエピソードを作っています。我々日本人からすると、支配者層に都合のいい歴史を教えられてかわいそうな北朝鮮の人たち、と同情しますが、まさか聖徳太子もそれと同じようなノリだの、しかも架空の人物だったとは!

 

いやいや、よその国のことを笑えないですね。実際のところ新しい教科書は、厩戸皇子(聖徳太子)になっていて、いずれは聖徳太子という名前がなくなる?らしいです。

 

聖徳太子の御廟所は、奈良の太子町の叡福寺にあります。

太子なごみの広場という公園がお寺の横にあり、無料の駐車場もありました。バイクを止めて正門側に回わって入ります。正門前にはバスも止められるようになっており、観光客も多いのでしょうか。

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広い境内に入ると、人影はなく参拝者は私一人でした。冬は参拝客は少ないのかもしれません。境内は綺麗に清掃されております。御廟所は北側にひっそりとありました。

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聖徳太子という名前がもし教科書から消え、架空の人物ということが一般的になってしまったら、太子町という町名と、このお寺の御廟はどうするのだろう、と少し心配になりましたが、誰がなんと言おうと、真実はわからないのだし、すでにある奈良の観光施設はなくならないだろうと思います。もし聖徳太子が藤原不比等がつくったファンタジーであったとしても、今となってはどちらでもよいのです。