四条天皇の月輪陵に行ってきました。
泉涌寺の境内にあるようです。
皇族の方が入る入り口はありましたが、閉まっていました。
横の方に一般人用の入り口がありました。
天皇の名前がたくさん並んでいます。
かなり厳かな印象です。まさしく皇室というデザインですね。
四条天皇は、1232年2歳で践祚(即位)しました。
初めは父である後堀河上皇が院政を敷きましたが、1234年に父の上皇も崩御してしまいます。そのあとは、母方の外祖父の九条道家や舅の西園寺家が事実上の政務を行いました。
しかし1242年、12歳という若さで亡くなります。悪戯好きの幼い天皇が、世話をしてくれている人達を転ばせようと、御所の廊下に滑石を撒いたのですが、自分が転んで打ちどころが悪く亡くなったようです。なんということでしょう。
さて、それからが困りました。父・後堀河天皇の兄はいずれも出家、男兄弟いなかったため、後高倉院の血統からの皇位継承は絶えます。鎌倉幕府は嫌がっていた後鳥羽上皇の血統から、仕方なく次代を選ぶことになり、九条道家ら有力公卿は順徳上皇の皇子・忠成王を推したのに対し、幕府は土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)を推し、このやりとりの末、11日間の空位期間が発生しました。
さて、こちらの月輪陵(つきのわのみささぎ)は、四条天皇だけの場所ではありません。
四条天皇を始めとして14人の天皇を含む25陵、5人の天皇の灰塚、9人の皇族の墓があります。
江戸時代の天皇はすべて月輪陵になっています。
108代 後水尾(ごみずのお)天皇
109代 明正(めいしょう)天皇
110代 後光明(ごこうみょう)天皇
111代 後西(ごさい)天皇
112代 靈元(れいげん)天皇
113代 東山(ひがしやま)天皇
114代 中御門(なかみかど)天皇
115代 櫻町(さくらまち)天皇
116代 桃園(ももぞの)天皇
117代 後櫻町(ごさくらまち)天皇
118代 後桃園(ごももぞの)天皇
119代 光格(こうかく)天皇
120代 仁孝(にんこう)天皇
天皇陵をずっと訪問してきましたが、平安時代の途中から寺院の隣にあることが増えました。これは奈良時代、僧侶の勢力が力を持ちすぎて、京都に遷都した原因となりましたが、平安時代は天皇と仏教の距離が近くなり、寺院の中に陵墓がつくられるようになったからのようです。
ただし、もともとは寺の境内にあった陵墓も、明治時代の神仏分離により、それらはすべて宮内省の管理の土地となりました。なのですべての天皇陵は、境内を通らなくても陵墓にいける参拝道が別に整備されてます。
天皇陵の場所は、宮内庁のホームページとグーグルマップで探してきたのですが、天皇によっては複数の場所に陵墓があります。火葬塚や灰を集めた灰塚が、陵とは別の場所にあるからです。平安時代は、天皇在位のまま崩じた場合は土葬し、譲位後の上皇が崩じた場合は火葬するのが通例になってそのようになったようです。