こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第八十五代:仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)の九條陵(くじょうのみささぎ)

仲恭天皇陵は、鴨川東ICの近くにありました。

実はここは桜の季節に訪れたのですが、いろいろ調べているうちに記事作成をさぼってしまってました。

 

散った桜の花びらが、石畳をピンクに染めてました。

 

石碑には、九條陵と月輪南陵とあります。

 

ゆるやかな石畳の階段を登っていきます。

 

見晴らしのいい場所に月輪南陵がありました。ここは、崇徳天皇皇后の藤原聖子の陵でした。

崇徳天皇が四国に流された後で京に残り出家して、皇嘉門院と名乗りました。藤原聖子と崇徳天皇の間に子供はいません。天皇の母親でないのに、何故こんな立派な陵があるのか不思議に思いました。

 

父親は摂政関白太政大臣の藤原忠通で、近衛天皇の養母だからでしょうか。

 

さらに坂道を上ります。

 

仲恭天皇の陵の石碑がありました。

 

九條陵には神々しい光が差していました。

 

 

九條陵の前で振り返ると、少し下のほうに何やらいっぱい石碑が立っています。

降りて確認してみました。

幕末の志士っていう感じの名前が彫られていました。

帰ってから調べてみると、予想通りでした。1868年の鳥羽伏見の戦で戦死した48名の長州藩および支藩の兵の石碑だそうです。

 

何故仲恭天皇陵の前にあるのでしょう。勤皇だから?

 

その疑問を解決するため、仲恭天皇についておさらいしました。仲恭天皇は順徳天皇の子供です。生後1か月で立太子しました。順徳天皇は祖父の後鳥羽上皇と共に、鎌倉幕府執権であった北条氏を倒そうと挙兵しました(承久の乱)。

 

そのとき4歳で譲位されました。

 

 

後鳥羽上皇と順徳上皇は、北条義時の息子泰時率いる幕府軍に敗北し、それぞれ隠岐・佐渡に流されます。土御門上皇も自ら望んで土佐に配流されました。

 

そして仲恭天皇は幕府により皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子の後堀河天皇が即位します。

 

仲恭天皇の在位はわずか78日でした。歴代の天皇の中で、最も在位期間が短い天皇です。即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、九条廃帝(くじょうはいたい)、承久の廃帝(じょうきゅうのはいたい)、半帝、後廃帝と呼ばれていたそうです。

 

明治政府により、大友皇子、淡路廃帝、九条廃帝に天皇号の追諡を行うことになり、天皇が第三子であったことから「仲」の字を、また諡は本来敬を表すものであるということから「恭」の字を選び、両者で「仲恭」の諡号を撰定するに至りました。明治政府は、仲恭と決定し、弘文天皇(大友皇子)、淳仁天皇(淡路廃帝)とともに仲恭天皇の諡号が布告されました。

 

仲恭天皇は、明治政府による天皇復権の象徴のひとつなのです。だから明治維新のために散った48人の志士が、忠勤天皇陵を守るように奉られているのでしょう。

 

亡くなった人への思いがこのような場所をつくり、鎌倉時代と明治を結ぶ不思議な場所になっているのでした。