こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第八十六代:後堀河天皇(ごほりかわてんのう)の観音寺陵(かんおんじのみささぎ)

後堀河天皇陵は、京都市の東山区にある泉涌寺の北にありました。



後堀河天皇の在位は1221年から1232年の9年間です。

 

北条氏を討とうと挙兵した承久の乱は失敗し、鎌倉幕府は後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇を配流しました。そして順徳天皇から譲位されていた幼い仲恭天皇を退位させました。

 

鎌倉幕府が次の天皇として選んだのが後堀河天皇です。鎌倉幕府としては、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系は除外しなければなりませんでした。何人かの候補の中から、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)の三男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)がよいということになりました。

 

守貞親王は安徳天皇の皇太子でもあり、平家滅亡のときに救出された人です。

 

高倉天皇の皇子は、安徳天皇(長男)、守貞親王(次男)、後鳥羽天皇(四男)がいました。平家は安徳天皇とともに守貞親王も連れて、西国へ逃れており、安徳天皇不在のときに、後鳥羽天皇が即位してしまったわけですから、もともと天皇へなる予定だった人の子どもである後堀河天皇は正当性がありました。

 

後堀河天皇は10歳で即位しましたので、守貞親王は後高倉院と名を変え、幼い天皇をサポートし、おもに承久の乱の事後処理を行い2年後に亡くなります。

 

その後、中宮を出した九條家が天皇をバックアップしていましたが、自分たちの権力を守るため、後堀河天皇と中宮の子である四条天皇に譲位させます。(まだ2歳!)上皇になり院政を始めた後堀河上皇はその2年後26歳で亡くなります。

 

上皇、天皇があいついで亡くなり、後鳥羽上皇の生霊のせいだといわれました。