こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第八十八代:後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)

後嵯峨天皇陵は、嵐山の天龍寺の中にあります。

 


嵐山はたまに来ています。渡月橋からみる山は、いつ見てもいい景色ですね。


渡月橋から少し歩いたところに天龍寺があります。

門から入ってしばらく歩きます。

つきあたり。この右側にあるようなのですが。

小さな門がありました。今まで何度も来てたのに、気づきませんでした。


墓参り以外は立ち入り禁止になっています。これは観光客は入れませんね。

天皇陵への参拝なので、入らせていただきます。

亀山天皇と同じ場所です。

後嵯峨天皇は、土御門天皇の皇子です。


承久の乱の前年の誕生。土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父で育てられましたが、20歳を過ぎても元服できないという中途半端な状態に置かれていました。

 

1242年に四条天皇が12歳で崩御してから状況が変わります。九条道家ら有力な公卿たちは、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとしまあしたが、執権北条泰時および現地六波羅探題の北条重時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しました。

 

即位後、後嵯峨天皇は、在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。1259年には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位させました。

 

後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府の統制下にありました。1268年に出家して法皇となり、1272年に崩御。宝算53です。

 

落ちぶれていた若者が、突然天皇となった時はどんな気分だったことでしょう。

 

ただ、これからが大変なことになりました。後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にし、治天の君を定めずに崩御した事が、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが日本史における南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となったのです。あらら。