こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第八十代:高倉天皇(たかくらてんのう)の後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)

 


高倉天皇陵は、六条天皇陵と同じ場所にあります。なぜ同じ場所なのか。二人とも後白河院の影響下にあったからなのでしょうか。

それと陵へは、清水寺への裏道のほうからではなく、清閑寺の駐車場がありましたので、車で行かれる場合はそちらに停めたほうがいいです。

六条天皇陵とは正確には場所が、分けられているようですが、参拝所からはその区別はできません。

高倉天皇は、後白河天皇の第7皇子にあたります。母は平清盛の妻・平時子の異母妹である平滋子です。

 

後白河院は、息子の二条天皇と折り合いが悪く、院政停止状態に置かれていました。その二条天皇がその息子の六条天皇を即位させてましたが、二条院が崩御すると、後白河院が復権します。

 

六条天皇を5歳で退位させ、3歳年長の六条天皇の叔父にあたる高倉天皇を8歳で即位させたのです。清盛も協力したのでしょう。あるいは清盛の差し金かな。

 

とにかく後白河院の立場は安泰。院政が復活し、平清盛との二人三脚が始まります。

 

そののち高倉天皇は、中宮に平清盛と時子の娘(従姉にあたる)の平徳子迎え、安徳天皇が誕生します。

 

それからしばらくして、今度は後白河院と清盛の政治的対立が深まります。治承三年の政変によって後白河院が幽閉されると、高倉天皇自ら政務をとります。安徳天皇に譲位し太上天皇となり、院政を開始しますが、間もなく病に倒れ21歳で崩御しました。

 

清盛と後白河院に翻弄された短い人生でした。