こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第七十八代:二条天皇(にじょうてんのう)の香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)

二条天皇陵は、北野天満宮の西側にありました。

二条天皇は1143年生まれ、在位は1158年(15歳)から 1165年(22歳)までです。御陵は北野天満宮の近くなので、何か関係あるのかと思いましたが、特になさそうです。

 

二条天皇(孫王。後の守仁)は、鳥羽法皇の孫として生まれました。生まれてすぐお母さんが亡くなり、祖父の奥さんの一人に引き取られます。将来天皇になる見込みはないので、9歳で出家しお寺に行きました。お寺でお経を次々と理解したことから、頭の良さが評判になります。

 

叔父である近衛天皇の病気が悪化すると、関白の藤原忠通が「次期天皇は出家している孫王がいいのではないですか。幼いですが頭がいいと評判です。」と鳥羽法皇に提案します。

 

鳥羽法皇は、「関白は子供を次期天皇にして、自分が権力を握るつもりなんやな」と看破し、忠通の父親の藤原忠実と一緒に反対します。「そもそも孫王の父親は、天皇にもなっていないんや。関白は狂っとるんやないか。」と言ったとか。

 

近衛天皇が崩御し、次期天皇を誰にするかという話になりました。孫王がやはり良いという話になりますが、父親を飛ばして子供をいきなり天皇にするわけにゆかず、中継ぎで後白河天皇(近衛天皇の弟で、孫王の父)が即位することになりました。孫王は立太子です。

 

それから三年後に、予定通り後白河天皇から譲位されて、孫王(守仁)は二条天皇として15歳で即位します。

 

と、ここまでは二条天皇の視点で書きましたが、これを後白河天皇側の視点でみたらどうでしょう。兄二人が天皇で、自分は天皇になる見込みがなかった後白河天皇。叔母に預けていた自分の子供が次期天皇候補になり、その息子が即位するまであんた中継ぎで天皇になりなさい、といきなり担ぎ上げられ、三年たったら無理やり譲位させられたわけです。

 

それはもう、ものすごく悔しい思いをしたのではないでしょうか。

 

二条天皇が即位したあと、二条天皇派と後白河院政派の対立が始まります。親子の関係は最悪になります。二条天皇が頼みとしたのは、藤原伊通と平清盛でした。二条天皇は優れた人物で「末の世の賢王におはします」と賞賛されたそうです。それに対し、父・後白河上皇は愚王といわれました。