こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第七十五代:崇徳天皇(すとくてんのう)の崇徳天皇御廟

今回は崇徳天皇です。

 

崇徳天皇陵は、関西にはありません。香川県坂出市青海町にある白峯陵(しらみねのみささぎ)に治定されています。

 

 

崇徳天皇陵に大阪から車で行く場合、往復で400キロ(6~7時間)の距離なので、日帰りでも行ける場所です。

 

バイクのツーリングがてら行こうとは思っているのですが、天皇陵に行くためだけに高速料金1万円を使うのはもったいなくて、なかなか腰が上がりません。他にも寄る場所を思いついたときに行こうと考えてます。

 

そのかわり、京都にある崇徳天皇御廟に行ってきましたので、記事だけは先に作成しておくことにしました。

 


崇徳天皇御廟は、繁華街・祇園の中心にありました。白峯神社というところです。

 

ここは、崇徳天皇にかわいがられていた阿波内侍という女性が、遺髪を請い受けてこの場所に一塚を築き、崇徳天皇の霊を慰めたのがはじまりと伝えられています。


数百年のちに、明治天皇がこの地に白峯神社をつくって、崇徳天皇を祀りました。その後で、淡路島に陵がある淳仁天皇も合祀したということです。

 

この神宮には「まり」の守護神として「精大明神」が祀られています。サッカーや新体操の人がお参りにくるようです。

 


崇徳天皇について復習してみました。

 

崇徳天皇というと、後白河天皇と対立して、保元の乱をおこして失敗。罰として讃岐に流され、その地で亡くなったということで知られています。京に戻れないことを恨んでいたことから、日本三大怨霊の一人ともいわれています。NHK大河ドラマ「平清盛」で、井浦新さんが演じてましたね。

 

在位は1123年から1142年です。三歳と数か月で鳥羽天皇のから譲位されて天皇に即位しました。鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第一皇子ですが、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話がのこされています。(おじいちゃんの子だから叔父にあたるということです。)

 

年齢を調べると、65歳の白河上皇が18歳の璋子を懐妊させたことになります。璋子は白河の養子でしたから、本当だったらとんでもない話。

 

鳥羽天皇にしてみれば、自分の奥さんを祖父に寝取られ、子供が生まれ、圧力で譲位させられるなんて、なんという屈辱だったでしょう。しかし白河上皇は絶大な権力を握っていましたので、天皇といえど逆らえませんでした。

 

鳥羽上皇の反撃は、43年間院政をしてきた白法法皇が亡くなってからです。まずは叔父子の崇徳に譲位を迫り、鳥羽上皇がかわいがっていた得子の子を天皇にします。近衛天皇は、崇徳の養子になっていましたが、異母弟になりますので、崇徳は上皇ではなく太上天皇になりました。

 

 

近衛天皇時代、崇徳の子供の重仁親王は、得子の養子になっていました。次の天皇は重仁親王だよ、と鳥羽上皇も言っていたのでしょう。崇徳と鳥羽の関係は悪くはありませんでした。

 

しかし、近衛天皇が若くして病死すると、鳥羽上皇と崇徳の関係は悪化します。鳥羽上皇は、近衛天皇が病で亡くなったのは、崇徳側の呪詛のせいで、崇徳を上皇にすると自分が排除されると恐れるようになったからです。

 

そこで次の天皇は、重仁親王ではなく話守仁親王にしようと決められ、まだ幼いため、その父親である後白河が中継ぎとして天皇になったのです。

 

後白河は崇徳の弟、話守仁親王は後白河の実子になります。

 

その後、鳥羽天皇が亡くなると、崇徳と後白河との対立が表面化してきます。争いは二人だけではありません。

 

摂関家の藤原氏の中でも対立がおきていました。藤原忠通は子がいなかったため、弟の頼長を自分の養子に迎えて跡を継がせるといっていました。しかし自分に子が生まれると、その話を反故にしたのです。怒った頼長は崇徳に近づき、後白河側の忠通を倒そうと画策します。

 

これに源氏と平家の一部が呼応し、保元の乱という軍事衝突にまで発展するのです。

 

乱の結末は、崇徳側が破れ、崇徳は讃岐に流されることになり、崇徳側の武士のリーダーは斬首されます。そして後白河についた平清盛が力を伸ばすはじまりになったのでした。