陽成天皇の水尾山陵は、平安神宮の北側にありました。このあたりは、あまり行かない場所です。周囲に他の天皇陵がいくつか点在しています。
陽成天皇は、生後3ヶ月足らずで立太子。876年、9歳の時に父の清和天皇から譲位されます。
当然政治を行うことは出来ませんので、母方の伯父である藤原基経が摂政に就きました。清和天皇と同じような立場の天皇です。
清和上皇が崩じて陽成天皇が元服すると、基経との関係が悪化し、883年より基経は出仕を拒否するようになります。
陽成天皇の母である高子と、藤原基経は兄妹で、清和天皇の時代から不仲だったともいわれています。ちなみに基経は藤原良房の養子で、高子とは同母だといわれています。
その後陽成の乳兄弟であった源益が、宮中内で何者かに殴殺されるという殺人事件が発生。陽成はその事件に関与していると噂され、退位することになります。
良房と基経から、いわゆる摂関政治が始まり、藤原氏が権力を掌握します。その藤原氏の歴史を頭の中で整理するため、倉本一宏氏の著作を買って読みました。
読後感は正直あまりよくありませんでした。藤原氏の歴史がよく整理され、文章もわかりやすく、よい本だとは思いました。ただ、内容が権力闘争の話で、しかも謀略や暗殺などの話が多く、はたまた同族同士の争いもあり、陰鬱さを感じます。武士同士の争いは小説やドラマになりますが、貴族の騙しあいがそうならないのは、見ていて不快になるからでしょう。
また、摂関政治が始まってから、それまで歴史の中心であった天皇が、次第に脇役となっていく過程がよくわかりました。
よく日本の天皇制は世界で唯一のものだといわれます。世界史をみると、王室や皇室というものは、外敵に滅ぼされたり、国民に処刑されたりと、悲惨な終わり方をしています。日本の皇室だけが、長い世紀を超えて万世一系を維持しています。世界史の中で奇跡的なことです。
何故そのような奇跡が可能になったかということを、あらためて考えてみると、天皇制といっても、天皇が権力の実権を常に握っていたわけではなく、時の権力者に利用されていたからでしょう。天皇であっても、権力者によって利用される象徴としての存在という形が、七世紀にはつくられていたのです。それが摂関政治というものでした。
藤原氏一族の存在は、天皇制に重要な役割を果たしました。最初は大化の改新によって強い天皇制をスタートさせ、日本書記で正当化し、摂関政治によって、権力者ではない統治者としての天皇をつくりあげたのです。現代まで続いている天皇制は、藤原氏のロードマップではなかったと思いますが、藤原一族という存在がなければ、今の天皇制はなかったといっても過言ではないと思います。