平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の第一子。在位が806年から 809年の3年間です。第51代の天皇になります。
桓武天皇が死去したあと即位しました。当初は政治に意欲的に取り組み、様々な改革を行って、政治・経済を立て直しました。しかしもともと虚弱体質であったせいか、即位3年で体調を崩してしまいます。これは不幸な死をとげた早良親王の祟りかもしれんと、弟の嵯峨天皇に譲位しました。
そして平城上皇は旧都である平城京に移り住みます。上皇としての権力があったので、次第に嵯峨天皇と対立するようになります。それを藤原薬子などが煽って、平安京にいる貴族たちに、平城京への遷都の詔を出してしまいます。政権の掌握を図りますが、嵯峨天皇が兵を動かして、そのクーデターは頓挫します。命が惜しい平城上皇は剃髪し、藤原薬子は責任をとって服毒自殺したことにより、事はおさまりました。
なんだか呆れる話ですね。上皇と天皇の対立は、会社でいうと会長と社長の対立に似ているような気がします。
平城天皇陵は、平城京の太極殿跡の北北東にありました。
拝礼所の前にバイクを停めると、平城京跡地にある太極殿が見えました。平城京跡は、藤原京と同じく現在まで残っている古い遺跡は何もありません。この建造物は、平城京遷都1300年記念のモニュメントとして、2010年頃に建てられたものです。
平城京への遷都についてあらためて調べてみると、以下の通り。
慶雲4年(707年) 文武天皇により審議が始まる。
和銅元年(708年) 元明天皇により平城京へ遷都の詔
天平12年(740年) 聖武天皇により平城京から恭仁京へ遷都
天平15年(743年) 聖武天皇により近江紫香楽宮の建設
天平16年(744年) 聖武天皇により難波京に遷都
天平17年(745年) 聖武天皇により再び平城京に遷都
延暦3年(784年) 長岡京に遷都
ちなみに大仏は、聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に完成しました。
平城京が都として機能していたのは、70年ほどの短い期間なのです。
この平城天皇陵となっているところは、昔からある古墳の一部を流用しているだけのようです。ここは円墳ではなく前方後円墳であったことが、後にわかったので、本当は違う場所ではないかといわれています。
他にも平城京の北側には、古墳がたくさんあって、古代天皇の陵に指定されているものも数基あるのですが、それらも誤った指定をしているのではないかと疑われます。
系譜を見ていると、平城天皇の孫に在原業平がいました。『昔おとこありけり』の伊勢物語の主人公であるとされています。