光厳天皇の陵は、常照皇寺にあります。このお寺は私がよくバイクで走る京都北部のツーリングコースの途中にあって、天皇陵に興味なかった頃は素通りしていました。
なかなか趣のある山門です。
お寺は自然と一体化しています。
写真映えします。
常照皇寺の中です。
陵への道は一度山門のほうに戻ります。
坂を上ったところにあります。常照皇寺の境内から直接陵へは行けません。
南北朝時代は、日本の歴史区分のひとつで、鎌倉時代と室町時代に挟まれる時代のことです。広義的には室町時代に含まれるそうです。
始まりは、後醍醐天皇の建武の新政が崩壊し、足利尊氏が光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)。
終わりは、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年閏10月5日(1392年11月19日)。
光厳天皇はその北朝の初代天皇です。
1313年に誕生し、後醍醐天皇の皇太子となります。1331年に鎌倉幕府の打倒に失敗した後醍醐が京都を出奔した後で、光厳天皇は後伏見上皇の詔を用いて19歳で践祚。のちに捕縛された後醍醐より皇室伝来の三種の神器を継承して即位します。
ところがその2年後、幽閉されていた後醍醐天皇が隠岐から脱出し、倒幕運動が再び活発となります。鎌倉幕府を裏切った足利尊氏と後醍醐天皇から、光厳天皇は攻撃を受け、幕府軍と共に東国へ逃避行をするも、近江国にて幕府軍全員が自害し、光厳天皇は逮捕。後醍醐天皇によって廃位されてしまいます。
光厳天皇もそのままでは終わりませんでした。1336に後醍醐天皇方を離反し九州へ敗走していた尊氏に対して、光厳天皇は後醍醐天皇方の新田義貞の追討を命じる院宣を与えます。
そして、義貞を破り勢いづいた足利尊氏の反撃によって後醍醐の建武政権が完全崩壊すると、政局にに返り咲きました。足利尊氏はどんだけ裏切ってんねん。
同年に弟の豊仁親王(光明天皇)を践祚させ、北朝が開かれます。吉野に逃れた後醍醐を頂点とする南朝も開かれ、二人の天皇が立つ南北朝時代となるのです。
光厳は、光明と崇光天皇の在位中は院政を敷き、新たに成立した室町幕府と協調しながら法整備や撫民政策を実行しました。
しかし、1351年に尊氏が南朝に降伏して正平一統が成ると、北朝は一時的に廃止され、崇光は廃位、光厳院政も停止されます。さらに翌年には、南朝によって大和国(奈良県)の山奥である賀名生に拉致されてします。尊氏くん、いい加減にしなはれ。
程なくして北朝は復活することになりますが、光厳は、皇子である弥仁王践祚の計画に失望して幽閉中に出家し、禅宗に帰依しました。その後丹波国山国に常照皇寺を建立し、同地で修行して常照皇寺にて52歳で亡くなりました。
明治44年(1911年)、自身の子孫である明治天皇が、南朝の天皇を正統とした結果、皇統から除外され歴代天皇の地位を消失したので、系統図にはありません。
この場所の写真は、去年撮っていたのですが、南北朝の歴史がややこしいので、太平記を読んでから記事にしようと思っていました。まだ太平記は読み終わっていませんが、やっと歴史の流れが頭に入ったので、記事にしました。