こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第九十七代(南朝第二代):後村上天皇(ごむらかみてんのう)の檜尾陵(桧尾陵:ひのおのみささぎ)

後村上天皇の檜尾陵は大阪河内長野の観心寺境内にありました。

陵はわかりにくい場所にありますので、入り口の参拝受付で場所を聞いた方がよいです。自分で探すと見つけられないかもしれません。それと、天皇陵だけ参拝する場合は、参拝料金は必要ありませんので申告しましょう。

 

山門から右手の道をまっすぐ進みます。

途中石碑があるところを左折

宮内庁の表示があるところを登っていきます。

後村上天皇は、後醍醐天皇の七男(七宮)です。

 

後醍醐天皇は子だくさん。権力への執着心がとても強い天皇だったので、男性ホルモンも強かったのでしょう。

 

七男が天皇になりましたが、他の兄弟はどうなったのか。気になったのでまとめてみました。

 

一宮:尊良親王

後醍醐天皇第一皇子。母は二条為子。


父の後醍醐帝の推薦によって次の皇太子候補者に選ばれますが、持明院統との政争に敗北して、次の皇太子になったのは量仁親王(のちの光厳天皇)です。

 

そして鎌倉幕府を倒そうとした元弘の乱(1331年 - 1333年)では、捕縛されて土佐に流罪になります。しかし同地から脱出して、九州で決起。旗頭となり、鎮西探題を撃滅して、父の幕府打倒に貢献しました。

 

足利尊氏との戦い(建武の乱・1335年 - 1337年)では、上将軍(名義上の総大将)に抜擢されました。父が尊氏に降伏してからも、越前国(福井県)で尊氏との戦いを続けますが、金ヶ崎の戦いで新田義顕(義貞の子)と共に落命します。


太平記では、源氏物語の絵巻の美女に恋をする、日本初めての二次元コンプレックスを発症した人としてに描かれます。絵巻にそっくりの御匣殿(中宮に仕える高級官僚女御)に恋をして、略奪愛を成就しました。金ヶ崎では劇的な最期を遂げる美男子として描かれました。

 

二宮:世良親王(大宰帥)

第二皇子。母は西園寺実俊の娘遊義門院一条局。聡明で父の後醍醐天皇の期待をかけられていたが早世してしまいます。


三宮:護良親王(座主、征夷大将軍)

第三皇子。

鎌倉幕府を打倒することに功績を挙げ、建武の新政では征夷大将軍に補任されます。しかし足利尊氏と仲が悪くて、後醍醐天皇とも意見の相違があって、将軍を解任されてしまいます。やがて政治的地位も失い失脚し、鎌倉に幽閉されていましたが、中先代の乱の混乱の中で、足利高国(直義)に殺害されてしまいます。


四宮:宗良親王(座主、征夷大将軍)

第四皇子。

父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となりますが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると、還俗して南朝方の旗頭として活躍をするようになります。

 

正平6年/観応2年(1351年)に足利尊氏が一時的に南朝に降伏した正平一統の際には、新田義興や新田義宗とともに鎌倉を占領します。翌年、後村上天皇から征夷大将軍に任じられますが、武蔵野合戦に敗れ、鎌倉かた撤退。何度か再起を図るも振るわず、南朝の勢力は大幅に低下します。最期は不明。


五宮:恒良親王(皇太子)

第五皇子。

後醍醐天皇と鎌倉幕府との戦い元弘の乱で、後醍醐が笠置山の戦いで敗れると、後醍醐および尊良親王らは隠岐島に流されました。恒良は10歳以下だったので、流罪を免れて西園寺公宗に預けられました。

 

建武の新政が始まると、恒良は皇太子に指名されます。建武の乱で、尊氏が湊川の戦いに勝利して京都へ迫ると、異母兄の一宮・尊良親王とともに、新田義貞・義顕父子に奉じられて北陸統治を名目に越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に下向しました。

 

北陸での恒良は、各地の武将に綸旨(天皇の命令書)を発給しており、自らを天皇と認識していたそうです。しかし、後から京を脱出した後醍醐が、吉野で南朝を開いたので、恒良の皇位は無意味となって、恒良は現在歴代天皇には数えられていません。

 

金ヶ崎の戦いで、新田義貞は脱出、尊良・義顕は自害しました。『太平記』によれば、恒良は捕らえられ京都へ護送され、弟の成良親王らとともに花山院第に幽閉され、共に毒殺されたと伝えられています。


六宮:成良親王(征夷大将軍)

第六皇子。

後醍醐天皇の建武の新政がはじまると、兄の恒良親王が皇太子に指名され、成良親王は鎌倉将軍府将軍となります。

 

『太平記』では、兄である恒良親王とともに毒殺されたと伝えられています。


八宮:懐良親王(征西大将軍、明朝日本国王)

第八皇子。

懐良親王は、南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築きました。

 

建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して、味方の勢力を築こうと考えました。延元元年/建武3年(1336年)には、まだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命して、九州に向かわせます。親王は伊予国忽那島(現在の愛媛県松山市忽那諸島)へ渡り、当地の瀬戸内海の海賊衆である忽那水軍の援助を得て数年間滞在しました。

 

その後、薩摩に上陸。北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ、九州の諸豪族を勧誘して九州を攻略しました。足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返した。

 

幕府の内紛で足利尊氏とその弟足利直義が争うと、直義の養子の足利直冬が九州へ入ります。九州では、幕府、直冬、南朝が対立する構図に。

 

その後は今川貞世(了俊)に大宰府・博多を追われ、中国に逃れていた足利直冬も幕府に屈服したため、九州は幕府に平定されます。懐良は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇皇子)に譲ったのち、筑後矢部で病気で薨去します。

 

さて七男の後村上天皇。

 

1333年、隠岐に幽閉されていた後醍醐天皇がカムバックし、鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を始めます。

 

翌々年に、新田義貞に鎌倉幕府を滅ぼされて自害した北条高時の子の北条時行(最近放映されているアニメ「逃げ上手な若君様」の主人公)が中先代の乱を起こすと、その混乱のなか後醍醐天皇の皇子である征夷大将軍護良親王は、足利尊氏の弟の足利直義に殺されます。

 

更に中先代の乱を鎮圧するため、後醍醐天皇から朝廷軍を預けられた足利尊氏が謀反を起こし、後醍醐天皇から離反。尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで朝廷軍を破り、翌年、尊氏は京都を占領します。そのため後醍醐天皇は一旦比叡山へ脱出します。

 

建武2年、後醍醐天皇が逆襲。側近の北畠親子や伊達行朝の陸奥将軍府と供に、尊氏を追討するため京都方面へ軍を進め、尊氏軍を破り、尊氏を京都から九州へ敗走させます。

 

しかし延元元年/建武3年に、九州落ちした足利尊氏・直義兄弟は九州で態勢を立て直して再び京都方面へ攻め上り、湊川の戦いで南朝の楠木正成・新田義貞を破り楠木正成は戦死。

 

こうして足利尊氏は再び京都を奪い取ると鎌倉幕府の北条氏を見習い、後醍醐天皇に廃された光厳天皇の弟である持明院統の光明天皇を擁立し北朝を樹立します。一方後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を樹立します。

 

足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命されて、室町幕府が成立します。

 

南朝の公卿・北畠顕家は北朝・室町幕府の執事高師直・高師泰兄弟との石津の戦いに敗れ戦死。更に南朝の新田義貞は越前国藤島(福井市)灯明寺畷で北朝軍との藤島の戦いに敗れ、戦死。同年義良親王は宗良親王と共に北畠親房および戦死した長男の北畠顕家の弟である北畠顕信に奉じられ、伊達行朝・結城宗広・中村経長らの軍船のもと、伊勢国大湊から三たび陸奥国(東北地方南部の宮城県多賀城)を目指したが、途中暴風雨に遭って一行は離散し、義良親王の船は伊勢に漂着します。

 

延元4年/暦応2年(1339年)3月、義良親王は南朝の京都の吉野へ戻り、皇太子となり、後醍醐天皇の譲位を受け、後村上天皇として即位しました。

 

ふう。南北朝時代は登場人物が多くて理解するが大変ですね。