こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

「大海人皇子=漢皇子」説について

ここしばらく、京都の天皇陵巡りを中断しています。緊急事態宣言と暑さの理由からです。

 

そのかわりに日本史の解説本や歴史小説を読んでいます。私は今まで公共の図書館をほとんど利用していませんでしたが、歴史本は図書館にたくさん置いてあるので、最近よく利用するようになりました。

 

日本の古代史関連を何冊か読んでいて、天武天皇について興味深い説がありました。

 

それは「大海人皇子=漢皇子」説です。

 

漢皇子(あやのみこ)は、日本書記に少しだけ出てきます。皇極天皇(重祚して斉明天皇)となる宝皇女が、舒明天皇(田村皇子)と再婚する前に、用明天皇の孫である高向王との間に生まれた子が漢皇子です。日本書記には簡単な記述があるだけで、その後登場しません。

 

漢皇子は天智と天武の異父兄になります。その漢皇子と天武(大海人皇子)は、実は同一人物ではないのか、と考える歴史研究者が複数人いるのです。

 

その説の根拠は、日本書記の内容の不透明感にあります。

 

まず、天武天皇の生年と没年齢が日本書記に記されていないことです。他の天皇は必ず生年と没年あるいは没年齢が記されています。ところが天武帝は没年しか記されていません。何歳で崩御したのか、そして何年に生まれたのかが分からないのです。

 

古代の天皇ならいざ知らず、日本書記の編纂を命じた天武天皇の生まれ年をわざわざ隠しているのは、何か別の理由があるのではないかということがひとつ。

 

また、天智天皇が「実弟」の大海人皇子に、四人の娘を妻に与えていることがおかしいのではないかというのもあります。(天智天皇の存命時代は二人だけですが)実の弟に、そこまでする必要があるのかということが奇妙です。大海人皇子から額田王を奪ったので、罪滅ぼしという説もありますが、それにしてもおかしい。

 

それらの謎について、天武が天智の実弟というのは嘘で、ほんとうは異父兄であったのでは? 漢皇子と大海人皇子は同一人物で、大海人漢皇子と名乗っていたのを二人の存在に分けたのではないか、という推理があるのです。

 

そして、日本書記は天武天皇、持統天皇、藤原不比等らが、自分たちに都合のいいように編纂したというのは定説になっています。創作と真実を混ぜこぜにして書いてあるので、何が本当かよくわからないようになっているので、それくらいの誤魔化しはありそうだと。

 

天武は天智が息子に皇位を譲ろうと考えているのを知ると、自分が殺されないように吉野で出家し、天智の死後に武力蜂起して、大友皇子を死に追い込んだというのが定説となっていますが、異父兄ということになると、皇位継承の順位がそもそも低かったから中大兄皇子が即位したということになり、壬申の乱の正当性が薄れてしまうので、弟ということに変えたのではないか、と考えるといろいろとすっきりします。

 

中大兄皇子という名前の「中」が付く理由、自分の娘を二人も嫁に出した理由、壬申の乱で、朝廷側を圧倒するだけの豪族の支持を集められた理由、いろんなことが腑に落ちるのですね。

 

でも結局こういう説って証明できないから、義経がジンギスカンになった、光秀が天海になったというような面白話と一緒ではあります。フィクションの小説の裏話を勝手に想像しているのと同じことですね。

 

たくさんある歴史関係の本には、想像力豊かに創作している話もたくさんあるということが、わかってきたので自分なりにルールを決めました。

 

1.10年以上前の歴史の本は読まない。

 

昔言ってたことが嘘だとわかっている場合が多い。今では絶版になっている歴史本は価値がなくなっている。10年以上前の本を読むのは時間の無駄になる可能性がある。

 

2.学会に属した著者の書いた歴史本のみ読む。

 

学会に属さない人は、何を書いてもよいので、面白くて本が売れればよいという無責任な説を書く人が多い。娯楽としては面白いが、後で知識のノイズになってしまう。そういう新説は、小説や漫画にすればよいと思う。

 

漫画といえば、「天智と天武」というBL?歴史漫画があるらしいです。これも図書館にあるので読みたいのですが、人気があっていつも貸し出し中(笑)

 

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