草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の皇子です。そして文武天皇の親になります。早逝して即位はしていないのに岡宮天皇と称されているのは、文武天皇に正当性を与えるためだとされています。
草壁皇子には、大津皇子という異母兄弟がいました。大津皇子は父親の先妻の大田皇女(持統天皇の姉)の息子になります。大津皇子は、天武天皇が無くなった後に、謀反の疑いで自死(実際は処刑)しました。奥さんの山辺皇女(天智天皇の皇女)も殉死。
大津皇子は文武両道で人気があり、草壁皇子は体が弱い皇子だったとされています。
少し不思議に思ったのですが、大津皇子のほうがお兄さんで、草壁皇子が弟だと私は思っていたのです。というのも、大津皇子は大田皇女の息子、草壁皇子は鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の息子で、大田皇女は鸕野讃良皇女の姉ですから、天武天皇が先に姉を妃として、亡くなってから妹である鸕野讃良皇女を後妻としたのだと思っていました。
ところが先に生まれたのは草壁皇子(662年生)で、翌年に大津皇子(663年生)が誕生したということになっています。ということは、天武天皇は兄の娘(姪)である大田皇女と鸕野讃良皇女の二人を同時に愛していたということになります。そういえば天智天皇の子は16人ですからね。当時は一夫多妻でありましたがややこしい。
草壁皇子の陵墓は、両親である天武・持統天皇陵の南西3.5キロにあります。
ここはバイクで訪れました。
少し小高い場所にあります。
拝礼場所には入れません。一般人は側面からしか見えません。
草壁皇子ではなく岡宮天皇と書いてありまが、実際は即位せずに早逝しました。
陵の近くにお堂がありました。