仁明天皇は、第54代の天皇です。
仁明天皇の在位は833年から850年までの17年間。794年の平安京への遷都から40年あまり経った頃、嵯峨天皇の第二皇子である叔父の淳和天皇から譲位されました。
藤原氏は仁明天皇の世でもやりたい放題です。
仁明天皇が即位した当初は、淳和天皇の皇子の恒貞親王が皇太子となり、次期天皇は恒貞親王だと予定されていました。叔父から譲位してもらったので、次は叔父の息子に即位させるよ、としていたのですね。
ところが、仁明天皇の子供(道康親王)が生まれると、状況がかわります。道康親王の母親は、藤原北家の藤原良房の妹の順子です。藤原氏が勢力を伸ばしていましたので、恒貞親王は皇太子を辞退したいと言い出します。それに対し嵯峨上皇が慰留していましたが、淳和天皇が41歳で亡くなり、嵯峨上皇も病気になると、恒貞親王派が皇太子を逃がす段取りを計画。それが密告されて、恒貞親王が皇太子を廃されることになるのです。
そして仁明天皇は自分の子供を皇太子(文徳天皇)にして、兄弟で譲位するのではなく、直系に譲位するように変わっていくのですね。
藤原良房は、嵯峨天皇、淳和天皇、仁明天皇、文徳天皇、清和天皇の5人の天皇に仕え、人臣最初の摂政・太政大臣まで出世していきます。そして藤原氏はますます繁栄していくのでした。
陵墓は伏見区深草、JR奈良線の稲荷駅と藤森駅の中間くらいにありました。嵯峨上皇や文徳天皇の陵とはかなり離れた場所になります。
入り口が住宅に囲まれていたので場所がわからず、何度か前を通り過ぎてしまいました。
家に挟まれた通路を歩いて行くと陵墓がありました。
宮内庁の制札板(鳥や魚とるな)が見当たらず、代わりに子供が遊ばないよう張り紙がされていました。
宮内庁はこの場所を深草陵として治定していますが、本当は伏見区深草瓦町の善福寺周辺だろうと考えられているそうです。
JR藤森駅から徒歩15分くらいです。駐車場は閉鎖されています。車の路駐は5分以内ですね。