こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第八十九代:後深草天皇(ごふかくさてんのう)の深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)

後深草天皇の深草北陵は京都市伏見区にありました。伏見稲荷神社の半キロほど南です。

深草北陵は別名深草十二帝陵とも呼ばれ、後深草天皇だけではなく、鎌倉時代から室町時代にかけて持明院統の歴代12人の天皇の陵、および伏見宮栄仁親王の墓になります。

ここは、もともとお寺があり法華堂があったようです。戦国時代に焼失したりして、江戸時代に復興され、明治に整備されたとか。

後深草天皇の在位は、鎌倉時代の1246年から1260年です。

 

後深草天皇は後嵯峨天皇の皇子で、南北朝のゴタゴタの始まりとなった天皇となります。

 

南北朝の発端は、後深草天皇が病になり、弟の亀山天皇に譲位したのが始まりでしょう。

 

後深草天皇の在位中は、父親の後嵯峨上皇が院政を敷いていました。とうぜん後深草天皇には実権がありませんでした。そして亀山天皇に譲位させたのち、後深草上皇に皇子がいるのにも関わらず、亀山天皇の皇子を立太子させます。

 

当然、後深草上皇は不満を持ちました。過去の天皇は、兄から弟に譲位すると、兄の子を立太子するのが慣例になっていたからです。それに反した場合、大抵もめ事になっていましたね。

 

その後、後嵯峨法皇が治天やら皇位やらの決定権について、すべてを鎌倉幕府に委ねる形で1272年に崩御します。

 

そのころの鎌倉幕府は、元寇で大変な状況になっていました。誰が天皇になろうがどうでもよかったかもしれません。幕府は後深草上皇・亀山天皇の兄弟どちらとも決めかねて、2人の母后・大宮院に相談します。亡くなった後嵯峨法皇の希望は、亀山天皇にあったとの返答を得て、亀山天皇の子の後宇多天皇に譲位して、亀山天皇は治天の君として院政を開始します。

 

これに不満を抱いたお兄ちゃんの後深草上皇は、「じゃあ俺は太上天皇なんてならない、出家するもん」と意思を表明します。時の関東申次(調停と幕府の調整役)だったで西園寺実兼が、後深草上皇寄りであったこともあり、執権北条時宗と折衝して、後深草上皇の皇子の熈仁親王(伏見天皇)を立太子させることに成功します。

 

その後、後深草上皇方による後宇多天皇退位と皇太子擁立の動きが強まり、ついに1287年、伏見天皇即位に伴い、後深草天皇が院政を開始しました。1289年には第六皇子の久明親王を鎌倉将軍として下向させます。

 

その後も後深草天皇の政治への関与がは続き、持明院統の中心としてその繁栄に努め1304年に62歳でで崩御しました。

 

高校は世界史をとっていたので、南北朝のいきさつは今回初めて詳しく知りました。