こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第二十一代:雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう)の丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)

雄略天皇陵は古市古墳の北西にあります。

 

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拝礼所は古墳の東側にありました。

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この古墳の航空写真を見ると、少し変わった形をしています。前方後円墳を破壊されたような形です。円の部分は池に囲まれていて、四角い部分と離れています。記紀によると、仇討ちのために仁賢天皇が陵を破壊したとあります。

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円部分の古墳を北側から撮影。

 

雄略天皇は、ヤマト王朝の勢力を広げた天皇とされています。血の気が多い武闘派で、権力闘争の中で多くの人を殺害したため、大悪天皇の異名があります。

 

それらの行為をまとめると以下の通り。

 

雄略天皇は父允恭天皇の第五皇子でした。第一皇子の兄が、妹と近親相姦で追放され、第二皇子が天皇の後を継ぎました。兄は即位後しばらくして、お妃の連れ子に殺害されます。雄略天皇は兄たちを批判し、まず第四皇子を切り殺し、その後天皇を殺害した連れ子と兄の第三皇子を焼き殺してしまいます。さらに従兄たちも殺害して、天皇候補を自分以外一掃した後に大王となります。

 

大王になってからは、豪族の葛城氏、吉備氏を滅ぼし、高句麗と戦って百済を復興と、戦いを続けました。雄略天皇の前までは、中央集権ではなく豪族の首長連合によって。近畿は治められていたのではないかと思います。雄略天皇以降は、地方の前方後円墳はなくなっているそうです。ヤマト王朝の影響範囲は九州にまで及んでいたとか。

 

雄略天皇から少しずつ歴史にリアリティが出てきます。