一条天皇陵は龍安寺の北側にありました。
龍安寺の駐車場の北のほうに参拝所までの通路があります。
龍安寺には、一条天皇だけでなく、他の天皇陵もいくつか隣接しています。
お寺の敷地内を歩きます。
宮内庁と龍安寺の看板がありました。
一条天皇陵へ行くには、山道へ入って少し登らないといけません。
山道を何度か折り返しながら登っていくと、一条天皇の陵がありました。
振り返ると京都平野が見えます。
龍安寺へは何度も訪れていますが、この場所に来たのは初めてです。私と同じく、龍安寺への参拝客で、一条天皇陵に行く人は少ないと思います。
近所の方が散歩や運動で訪れているくらいではないかな。それほどキツイ坂道ではありませんが、ちょっとした運動になりました。
一条天皇陵からさらに少し登ったところに、先代の円融天皇火葬陵(火葬をした場所)があるとのことで、そちらにも行ってみました。
5分ほど歩いて登ります。
円融天皇陵は別にあるので、ここに鳥居はありません。
一条天皇は第66代天皇。在位は986年から1011年と四半世紀の長さ。
先々代の円融天皇の第1皇子です。先帝は従兄の花山天皇ですね。花山天皇が皇位を継いだ時、皇太子になりました。花山天皇がたった二年で出家してしまったので、数え年7歳で一条天皇が即位します。
これは孫の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀と言われてます。
兼家の死後は、長男の道隆が引き続き関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れますが数年後に病没。代わりにその弟の道兼が関白に就任しますが、わずか7日後に没してしまいます。そして道隆・道兼の弟の道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け実権を掌握します。
道長は、先に中宮を号していた定子を皇后宮と号して、また自分の娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させる事で、一帝二后としました。藤原氏は権力を維持するためには何でもしますねえ。
そんな感じで、藤原道長らのバックアップがあった一条天皇体制は長く続き、藤原氏の権力は最盛に達しました。皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって、平安女流文学も花開きます。
一条天皇は、文芸に深い関心を示し、詩文や音楽にも堪能で、人柄は温和で好学だったといいます。今日われわれが考える平安文化が育った時代の天皇でした。
圓融寺というのは、 圓融天皇が上皇となり出家して、亡くなるまで住んでいたお寺です。その後に廃され、後年龍安寺がその跡地に出来たようです。
2024年のNHK大河ドラマは、「源氏物語」を記した紫式部の生涯を描く「光る君へ」に決まりました。冷泉天皇と円融天皇、花山天皇と一条天皇、源高明、藤原道長、皇后定子、中宮彰子、清少納言、和泉式部が主な登場人物になるのでしょうね。楽しみです。