後一条天皇陵は、京都市左京区にあります。父上と夫人の陵からずいぶん離れた場所ですね。
住宅地の中にある円墳を整備したような敷地になっています。
天皇陵は、駐車場がないところが多いので、バイクで行くほうがよいです。
ここで再度、人物相関図のおさらいです。
一条天皇には二人の皇后がいて、三人の皇子がいました。
第一皇子:敦康親王
第二皇子:敦成親王(後一条天皇)
第三皇子:敦良親王(後朱雀天皇)
第一皇子は藤原定子(藤原道隆の娘。道長の姪)の子になります。第二、第三皇子は藤原彰子の子になります。天皇になったのは、藤原彰子の子だけ。定子は若くして亡くなり、第一皇子は外戚の支援者もおらず、天皇になれず失意のまま亡くなりました。
後一条天皇は、在位が1016年から1036年。数え8歳で即位しました。
後一条天皇の年表です。
1016 後一条天皇9歳で即位。
藤原道長が摂政となる
1017 道長が摂政を息子の頼通に譲る
1018 望月の歌(道長)
「この世をば わが世と思う 望月の 欠けたることもなしと思えば」
(※次女の威子が後一条天皇に入内した際に詠んだとされる。後一条天皇にとって威子は叔母になる。八歳年上であった。)
1019 刀伊(女真族)襲来
(※女真族=契丹により無国籍となった渤海民。対馬、五島列島、北九州を襲撃。藤原隆家が、大蔵種材を総大将として戦う。)
1027 藤原道長死亡。
1028 平忠常の乱(~1031)
1030 平忠常追討に甲斐守源頼信が命じられる。平直方は召集。
1031 平忠常降伏。
(関東で、源氏の力が強まる。)
1035 園城寺と延暦寺の争い勃発。後一条天皇病没。弟の後朱雀天皇が即位。
藤原道長は権力を掌握してましたが、摂政の期間は、1016年から1017年の一年間だけでした。引き継いだ頼通は、1017年から1020年まで摂政。1020年から1068年まで関白でした。
調べていて驚いたのは、後一条天皇の母親の彰子さん。なんと87歳まで長生きです。天皇二人のお母さんですから大事にされたのもあるでしょうけど、ものすごく体が丈夫だったのでしょうね。