こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第六十八代:後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)

後一条天皇陵は、京都市左京区にあります。父上と夫人の陵からずいぶん離れた場所ですね。

住宅地の中にある円墳を整備したような敷地になっています。

天皇陵は、駐車場がないところが多いので、バイクで行くほうがよいです。

 

ここで再度、人物相関図のおさらいです。

 

初恋の君が忘れられなくて。愛されすぎた后・定子と、愛されたかった后・彰子の生涯 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

 

一条天皇には二人の皇后がいて、三人の皇子がいました。

 

第一皇子:敦康親王
第二皇子:敦成親王(後一条天皇)
第三皇子:敦良親王(後朱雀天皇)

 

第一皇子は藤原定子(藤原道隆の娘。道長の姪)の子になります。第二、第三皇子は藤原彰子の子になります。天皇になったのは、藤原彰子の子だけ。定子は若くして亡くなり、第一皇子は外戚の支援者もおらず、天皇になれず失意のまま亡くなりました。

 

 

 

後一条天皇は、在位が1016年から1036年。数え8歳で即位しました。

 

後一条天皇の年表です。

 

1016    後一条天皇9歳で即位。
   藤原道長が摂政となる
1017    道長が摂政を息子の頼通に譲る
1018    望月の歌(道長)
「この世をば わが世と思う 望月の 欠けたることもなしと思えば」

(※次女の威子が後一条天皇に入内した際に詠んだとされる。後一条天皇にとって威子は叔母になる。八歳年上であった。)
1019    刀伊(女真族)襲来
(※女真族=契丹により無国籍となった渤海民。対馬、五島列島、北九州を襲撃。藤原隆家が、大蔵種材を総大将として戦う。)

1027    藤原道長死亡。
1028    平忠常の乱(~1031)

1030    平忠常追討に甲斐守源頼信が命じられる。平直方は召集。
1031    平忠常降伏。

(関東で、源氏の力が強まる。)

1035    園城寺と延暦寺の争い勃発。後一条天皇病没。弟の後朱雀天皇が即位。

 

藤原道長は権力を掌握してましたが、摂政の期間は、1016年から1017年の一年間だけでした。引き継いだ頼通は、1017年から1020年まで摂政。1020年から1068年まで関白でした。

 

調べていて驚いたのは、後一条天皇の母親の彰子さん。なんと87歳まで長生きです。天皇二人のお母さんですから大事にされたのもあるでしょうけど、ものすごく体が丈夫だったのでしょうね。