こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第六十代:醍醐天皇(だいごてんのう)の 後山科陵(のちのやましなのみささぎ)

醍醐天皇の 後山科陵(のちのやましなのみささぎ)は山科にありました。

 

 

醍醐天皇は第60代の天皇。在位は897年から930年までの33年間です。

 

宇多天皇の第一皇子です。臣籍として生まれ、宇多天皇とともに臣籍から皇族に復帰し、父の即位とともに皇族、親王となりました。はじめの名は源維城で、敦仁親王に改めました。天皇への即位は12歳のときです。

 

父の宇多天皇のアドバイスに従って、藤原時平と菅原道真を左右大臣とし、政務を任せました。

 

901年に、菅原道真を謀反を計画したとして大宰府へ左遷します。宇多上皇の政治力を低下させるためであったとか、時平の妹・藤原穏子が入内して藤原氏の影響力を増加させるためだったとか、理由には諸説があります。

 

そして菅原道真は、大宰府に到着してから二年後に死んでしまうのですが、909年に時平が死んだり、その2年後に醍醐天皇の時平の妹の子である親王も亡くなります。時平の娘と親王の間に生まれた慶頼王も5歳で夭折します。

 

あまりにも不幸が続くので、人々は菅原道真の怨霊の仕業と噂するようになり、醍醐天皇は道真を左遷した詔を覆して、道真を右大臣に復し、贈位を行ってその慰霊に努めました。

 

ところが、930年に清涼殿へ落雷が起きて、何人かが雷に打たれ死亡します。幸い醍醐天皇は無事でしたが、道真の怨霊にますます怯えるようになり、心労が重なったこともあって体調を崩し、皇太子の寛明親王に譲位します。

 

その落雷事件について「日本紀略後篇・百練抄」に書かれているところによると……


 「殿上に侍する者大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫は衣焼け胸裂けて夭亡す。又従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世は顔焼けて臥す。又紫宸殿に上る者右兵衛佐美努忠包は髪焼けて死亡す。紀蔭連は腹燔け悶乱す。安曇宗仁は膝焼けて臥す。民部卿朝臣(清貫)は半蔀に載せ陽明門外に至り車に載す。希世朝臣は半蔀に載せ修明門外に至り車に載す。時に両家の人々悉く侍所に乱入し哭泣の声禁止すれど休まず。」

 

なんだか、その時のパニックが目に浮かぶようです。947年にはとうとう北野社において神として祀られるようになりました。

 

菅原道真の生涯について、本を読みましたが、怨霊というより、勉強好きな本の虫という感じです。頭がよく博学ではありましたが、怨霊になるような人物だとは思えません。家柄よりも頭の良さで出世したことから、学問の神様になったというのは理解できますが。

 

先日九州にツーリングに行きましたので、大宰府にも寄ってお参りしてきました。



菅原道真が、自分の死後のことを知ったらとても驚いたに違いありません。神様として祀られて、千年後も参拝者の列が途切れないなんて、いくら頭がよい彼でも、想像もできなかったでしょう。