こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

初代:神武天皇(じんむてんのう)の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

神武天皇は、言わずと知れた日本の初代天皇です。日本書紀と古事記によると、九州からやってきて、奈良盆地一帯の指導者であった長髄彦らを滅ぼし、一帯を征服して橿原に都をつくり日本国を建国したとされる伝承上の人物です。

 

即位は西暦紀元前660年とされてますが、これはフィクションとみるのがよいでしょう。実在した可能性のある最初の天皇は崇神天皇で神武天皇と同一人物であるという説もあります。

 

宮内庁が管理している神武天皇陵(畝傍山東北陵)へ行ってみました。

 

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陵は橿原神宮の北側にあります。先日は時間がなかったため行きませんでしたので、橿原神宮は二度目の訪問になります。

 

バイクは槇原神宮の駐車場に停めて、神宮内の森を散策しながら、陵へと向かいました。15分くらいの場所にありました。

 

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神宮内の森です。木漏れ日がいい感じです。

 

陵墓の入り口です。

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道路には陵墓は面していません。入り口から広い砂利道を入って、右へ曲がったところの先に陵があります。多くの木々が周囲にあるのに砂利道にはほとんど落ち葉もありません。いつも綺麗に清掃をされているのだと思います。

 

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なんというか素晴しい空間になっていて、少し感動しました。さすが初代天皇の陵です。空間は広々としていますが、贅沢さはなくて、権威的でも世俗的でもなく、清らかで静かな空間となっていました。人工的でありながら自然と一体化した凛とした美しさが空間にありました。

 

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ミニマリズムの宗教施設デザインとはこのような形でしょう。この様式は、世界の他の宗教施設にはありません。

 

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日本文化にある普遍的な美意識を感じさせるデザインです。素っ気ないと感じる人もいるとは思いますが、私はこの簡素さはとてもよいと思いました。

 

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清掃も行き届いています。清めというのは神道で大事なことです。空間をシンプルにして、掃除を丁寧にしているというのはとても素晴らしいことです。

 

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近くに日本家屋の平屋も隣接されていました。お参りされた皇室の方が休憩される場所でしょうか。陵と同じく一般人は中に入れません。こちら側を出たところに10台くらい車を停めれる駐車場がありました。

 

私も大阪に住んでから歴史が好きになって、歴史解説の面白そうな本を見つけると、たまに買って読んでいるのですが、古代史にはまってしまう人の気持ちがわかってきました。特に大化の改新やそれ以前の歴史は、古事記と日本書紀などから読み解くわけですが、神話のようでありながら、何かの史実を元にしているようでもあり、実際にあった出来事や実際に存在した人物の話なのか、作り話なのか、嘘があるのかないのか、何故わざわざこんな話を書き残したのか、謎が多いのですね。神話でありながらも、まるっきり嘘だと思えない話が、いろんな想像、空想、推理をさせるのです。

 

日本書記の神武天皇の一節に以下のような文章があります。

 

宇陀川うだがわの朝原で、ちょうど水沫のように固まり着くところがあった。
天皇はまた神意を占い、

「私は今、沢山の平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平げるだろう」と言われた。

飴造りをされると、たやすく飴はできた。そしてまた神意を占って言われた。
「私は今、御神酒瓮おみさかめを、丹生(にふ)の川に沈めよう。 もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうど槇の葉のように浮き流れるようであれば、 私はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければ、事を成し遂げられぬだろう」

そして瓮を川に沈めた。するとそのロが下に向いた。しばらくすると、魚は皆浮き上がってロをパクパク開いた。

 

この飴のことは水銀であったのではないか、という説があります。宇陀地方には水銀鉱山があり、神武天皇は水銀を求めて西に渡ってきたのではないか、という視点なのですね。

 

水銀をつくる原料は辰砂という鉱物です。

辰砂(しんしゃ))は硫化水銀からなる鉱物です。日本では古来「丹(に)」と呼ばれました。別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などともいわれています。

 

辰砂は赤色(朱)の原料であり、防腐剤や防虫剤として利用され、また加熱して硫黄を分離すれば水銀を抽出することができます。水銀は不老不死の薬とされ(実際は水銀中毒で死にますが)、また金メッキする時の触媒の役割としても使えます。

 

奈良盆地へ向かうのに、なぜわざわざ紀伊の山の方から北上してきたかというとつまり鉱物を探していたからだと説明すると、なるほどと思いませんか。