光明天皇と崇光天皇の大光明寺陵は、伏見の住宅街にありました。歴代天皇では南朝が正当ですが、北朝だからといって差別はされていませんでした。敷地は宮内庁によって綺麗に管理されています。
光明天皇の在位は1336年から1348年。崇光天皇は1348年から1351年です。光明は後伏見天皇の第九皇子で、兄の光厳から践祚。崇光は光厳の第一皇子です。
光明天皇の即位によって北朝が成立しましたので、北朝最初の天皇は光明ということになりますが、光厳天皇が北朝初代天皇として扱われていますので、現在の皇統譜では光明は北朝第二代とされています。崇光が第三代ですね。
どちらの在位中も、光厳上皇による院政が敷かれていたので、これといった業績はありません。
崇光在位中には観応の擾乱が激化し、南朝と足利尊氏が仲直りすると、南朝の後村上天皇によって崇光は廃位されました。
足利と後村上の関係が破綻すると、光厳上皇・光明上皇・直仁親王とともに、南朝によって拉致されます。拉致に伴い急遽践祚した弟の後光厳天皇との間で、期間後に皇位を巡って争いがおこるが敗れ、光厳法皇から継承した伏見荘に逼塞した。
これを機に北朝内部の皇統は二つに割れ、後光厳天皇の血統が皇位を継承する一方、崇光天皇の血統は伏見宮を名乗ります。
崇光天皇の歿後、称光天皇の崩御によって後光厳皇統が途絶えると、伏見宮家から彦仁王が践祚(後花園天皇)。以降はこの皇統が皇位を独占しています。
崇光天皇は現在の皇室の祖先にあたります。