こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

銅鏡をめぐる妄想

先日、黒塚古墳で33面の銅鏡のレプリカを見てから、なんとなく銅鏡のことが気になって仕方ありません。銅鏡は何度も見たことありますが、多分墓の中に33面も入れて埋葬してあった、ということが強く印象に残ったのです。

 

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その頃の権力者にとって銅鏡は宝物であり、祈祷の道具であり、パワーアイテムであったと思います。

 

纏向豪族会での会話

 

「最近新しい銅鏡を手に入れたんや」

「へー、どんなやつですか? 今度見せてくださいよ」

「近くに来たとき寄ってや。それでな、今まで見たことないデザインやねん。銅鏡の裏にな、神さんと神獣の細かい彫り物がしてあるやつやねん。」

「あ、話には聞いたことありますね。なんか今大陸の方で流行しているデザインですね」

「そうや。縁起いいから持ってたら長生きできるみたいやねん」

「それはいいですね。やっぱり大陸製ですか?」

「そや、銅鏡は渡来物に限るわ。最近国産の増えてきたけどな、全部ちゃちいやろ?中津万呂が、職人に作らしたって自慢しとったけどな、光りかたも、裏の細工も国産はあかん。大陸製のほうがええねん」

 

そこに中津麻呂が登場。

「俺の噂しとるな。ちゃちくて悪かったな」

「お、中津麻呂やん」

「せっかく作った銅鏡を笑わんでええやろ。なんでも大陸のものがいい、って言ってたら進歩がないで。俺は大和の発展のために、大王のために、銅鏡の国産化を頑張っとるんや。お前みたいに大陸ブランドをありがたがっとるから、渡来人になめられるんやで。」

「さすがは中津さん。お志が高いです。大王も喜ばれますよ」

 

というような会話がされていたのかもしれません。ずっしりと重くてキラキラ輝く銅鏡は、男たちの所有欲を満たすものであり、豪族同士のマウンティングにも必須のアイテムだったのではないかと思うのです。

 

今の男たちでいえば、腕時計がそうかもしれません。会社でも高級腕時計をしている人をちらほら見かけます。私は高級腕時計を欲しいと思わなくて、10万以上する時計は持っていません。若い人でも高級時計を持っている人がいますよね。先日も会社で、二十代の社員が「オメガのオーバーホールに10万円以上かかりましたよー」とか言っているのを聞いて驚きました。その修理代、俺の時計より高いやん。新しいの買った方がいいのにと思いました。

 

私の中で高級時計となってるシチズンのソーラー時計を長年使っていました。金属アレルギーなので、チタン製を探して6万円くらいで購入しました。デザインを気に入っていて、もう20年くらいは使っていましたが、スマートウォッチを買ったので引き出しに入れていたら、全く動かなくなってしまいました。

 

充電が切れたと思って、ベランダで日光を浴びさせたのですが回復しません。ネットで調べると、どうやらソーラー時計といっても、永遠に動くわけではなく、充電するための電池が劣化するようです。ヨドバシカメラに持って行って、二次電池の交換ができるかどうか尋ねると、メーカーに出して3万6千円かかります、と言われました。それだったら新しいの買ったほうがマシです。修理は頼みませんでした。と、それくらいが私の時計に対する価値観です。

 

そんな貧乏くさい話ではなくて、銅鏡でしたね。銅鏡は今の時代の感覚でいえば、オメガかロレックスくらいだと思うんですよ。それを黒塚古墳の主は33個も集めたわけですね。コレクターで物欲の強い人だったのです。たくさん集めればそれだけ長生きできると思ったのかもしれません。あるいは自分が死んだ後で一緒にたくさんの銅鏡を埋葬すると、生き返ることができると思ったのかもしれません。

 

なんだか銅鏡について考えながら、今も昔も男たちは金属のきらめきに弱いのではなかろうか、と思ったのでした。