こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

卑弥呼の里/箸墓古墳

まだ暖かいだろうと思って、ジージャンでバイクに乗って奈良へ行きました。高速を走っていると、風が冷たくて体が冷えてしまいました。他のライダー達はダウンや革ジャンを着ていて、すっかり冬モードです。バイクの服装は、歩いている人の服装を参考にしてはいけません。寒くなるのは早いです。来週からは革ジャンを着ます。

 

今日は、天理市の古墳群を見に行きました。卑弥呼の古墳といわれている箸墓古墳について以前から気になっていたのです。天理市へは、大阪市内の環状線から阪神高速に入って南の名阪国道の方へ走り、京奈和道路に入って三宅ICから出ました。高速道路を使うと大阪市から1時間以内です。

 

木枯らし1号の日に、ジージャンで高速道路を走って体がすっかり冷えたので、古墳巡りをする前に、何か暖かいものでも食べようと、得得というファミレスに入りました。牡蠣入り鍋うどん食べました。温まりました。レストランの前に唐古・鍵遺跡 史跡公園というものがありましたので、寄ってみました。聞いたことが無かった遺跡です。

 

 

綺麗に整備されている大きな公園になっていました。遠くに櫓のようなものが見えます。復元されたものでしょうか。

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遺跡を紹介する建物が、公園の入り口にありました。

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建物の中に、発掘現場を再現したものがありました。弥生時代の建物の柱が発見されたところのようです。ちょっと驚いたのは柱の太さ。かなり太い柱ですね。高床式の建物の柱のようです。

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公園を出て、少し離れた西の方にある、黒塚古墳へとバイクを走らせました。

 

黒塚古墳は、銅鏡がたくさん発見された場所として有名です。

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黒塚古墳展示館のホームページでは、月曜日は休みとのことでしたが、やはり開いていました。文化の日の振り替え休日だから、こういう施設は開いているだろうとの予想が当たりました。

 

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数人のボランティアの方が、古墳や銅鏡について説明をされていました。展示室の中には発見当時の遺跡のレプリカがありました。33面の銅鏡は1997年の発掘調査で発見されましたので、ここの施設はまだ新しいです。

しかしなぜ33面もの銅鏡が、柩と一緒に埋蔵されていたのか気になります。銅鏡はこの時代には高級品で宝物であったはずです。これだけ大きい古墳であれば、かなりの権力と財力を持っている豪族ではあったでしょうが、勿体なくなかったのか。墓は自分が死ぬ前につくらせて、銅鏡を埋めろと言い残したのか。墓を大きくしたかった理由は、自分の権力を誇示したいためか、宗教的な動機のためなのか。尊敬されていたのか、恐れられていたのか。

 

天理市には小さい古墳を含めると何百個もあるそうです。その時代の豪族は多かれ少なかれ自分の死後に墓をつくりたかったし、大きければ大きいほど権力をアピールできたのでしょう。

 

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銅鏡は墓の中に上の写真のような形で残っていて、木の棺の上に並べて置かれていたものが落ちたようです。棺と骨は発掘当時は残ってなかったということ。

 

33面の銅鏡のレプリカが2階に展示されていました。

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この銅鏡は、三角縁神獣鏡といって、長生きのための魔除けのような役割があったようです。三種の神器のひとつも銅鏡でしたね。魏志倭人伝には、卑弥呼への土産として100面の銅鏡を渡したと書かれてあり、黒塚古墳で発掘されたものが、その100面の一部ではないかといわれています。

 

今我々が見る銅鏡は、緑青(ろくしょう)色になっていますが、当時はメッキされて反射し鏡としての機能性を持っていました。当時の人から見れば、最先端技術のガジェットです。顔が映る人工物はほかになかったので、神秘的で呪術的な道具でもあったのです。鏡を持っている人間は権力者であると同時に、卑弥呼のように呪術を行える立場であったのかもしれません。祈祷師は原始社会の集団の中で、様々な役割を持ち、統率力もあったのでしょう。

 

また銅鏡のデザインの変遷も気になります。私はデザイン業をしていますが、この時代にも銅鏡をつくる職人は少しでも高く買ってもらうために、銅鏡の意匠にこだわったのでしょうね。すでにインドでは彫刻文明は発達していますたので、シルクロードを旅する行商人が持っていた彫刻や宗教観が影響を与えたのかもしれません。

 

銅鏡は三種の神器のひとつであり、使われ方がどのようなものだったか、興味があります。

 

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展示場のすぐ横に黒塚古墳があり、中に入れますので、歩いてみました。

 

前方後円墳の円の部分へ向かう通路です。

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古墳の後円部の上まで階段を上ります。

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展示室の棺跡が発見された場所がここです。コンクリートでシンボル化されていました。大きな前方後円墳はだいたいが天皇陵とされていて、一般人は古墳の中へ入れません。ここは古墳の上に一般人が立ち入れる珍しい場所になっています。

 

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前方部は、普通の公演のようになっています。ピクニックしたり寝転んだりしたい感じですが、さすがに、ここでお弁当なんかを食べるのは無理ですかね。

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池の外の駐車スペースにバイクを停めました。後から、169号線のファミリーマート天理柳本店のところに、天理市の古墳用駐車場があって、そちらの方が展示館へは近いということがわかりました。行かないとわからんです。

 

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黒塚古墳で予習しましたので、いよいよ本命の箸墓古墳へと向かいます。

 

 

近くに大きな無料駐車場がありました。後ろに見えている小さい丘が古墳です。

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麓に鳥居が見えます。宮内庁管轄の陵墓のデザインです。

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例の立札もありました。箸墓古墳は、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されています。卑弥呼の墓と言っているのは、一部の歴史研究家が言っている説であって、公的に証明はされていません。

 

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いろんな本を読んで、私もこの辺りが邪馬台国のあった場所ではないかという意見に賛同していますが、真実はわかりません。宮内庁管理の古墳の発掘調査を徹底してやれば、いろいろ新しい事実が判明すると思うのですが。発掘が出来ない以上は、奈良の歴史はヴェールに包まれたままです。日本国全体の共有する歴史的財産なのに、なんだか勿体ないですね。

 

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歴史の真実はさて置き、秋の奈良の田園風景は、自然の色彩がとても綺麗です。この風景を見れたので、今日はいいツーリングでした。