天智天皇は舒明天皇の第二皇子です。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)です。
皇極天皇4年6月12日(西暦645年)に、中大兄皇子は中臣鎌足と、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺します。乙巳の変です。入鹿の父の蘇我蝦夷は翌日自害します。
その翌日、皇極天皇の弟(叔父)を即位させ(孝徳天皇)、自らは皇太子となりました。
当初は孝徳天皇をサポートしていましたが、対立し難波宮に天皇だけを残して、奈良に引き上げてしまいます。失意の(あるいは暗殺)孝徳天皇が亡くなると、母親を再び天皇にしました。
また古人大兄皇子(異母兄)や、有間皇子(孝徳天皇の皇子・従妹)など邪魔者は謀略で殺害してしまうなど、かなり恐ろしい人だったようです。
しかし唐と新羅に滅ぼされた百済復興のために、白村江の戦いを起こすも惨敗。大陸の侵攻を怖れて大津へ遷都します。
やがて病気になり、息子の大友皇子(弘文天皇)に譲位したため、弟の大海人皇子は身の危険を感じて、吉野で出家し、その死後壬申の乱へと時代は流れていくのでした。
天智天皇陵は京都市山科にあります。
143号線に入り口があるのですが、拝礼所までの距離がとにかく長いのです。グーグルマップでみると400メートルくらいです。
こちらが入り口。
途中また門があります。夜は閉めているのかもしれませんね。
やっと拝礼場が見えてきました。
デザインは今までの天皇陵と同じです。
武力や策略をもって、中央集権の律令国家をつくろうとした天智天皇にふさわしい立派な陵でした。
天智天皇陵に行って思ったのは、なぜ山科にあるのだろう、ということ。それまでの天皇陵は大阪か奈良にありましたから、なぜ京都にあるのか不思議に思いました。理由は、近江大津宮に都を移して近江で亡くなったので、山科に陵をつくったからです。
近江大津宮は飛鳥からだいぶ距離があります。大津に遷都したのは大陸から唐が攻めてきたときに、琵琶湖に脱出できる地の利があるから、という説がありますが、飛鳥でも鈴鹿の方に逃げればいいし、本当の理由はどうなんでしょうね。とにかく百済勢力との関係があるのでしょうけど、そのあたりはまだ勉強中です。
天皇陵を初代から訪れてきましたが、天智天皇はひとつの区切りを感じます。
それはやはり日本の歴史の中で、大きな存在感がある人物であるからです。それを裏付けるように、他の陵とは違ってとても立派でした。