こばると歴史探訪ログ

関西の史跡や寺社を訪れた記録です

第三十一代:用明天皇(ようめいてんのう)の河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)

用明天皇の陵墓は、太子町にありました。

 

用明天皇は聖徳太子の父です。

 

聖徳太子のお墓がある叡福寺は陵墓のすぐ近くにあります。

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 綺麗に区画され手入れされています。

 

上空写真の右端のバス停留所前にバイクを置きました。

(邪魔にはならないところです。)

 

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拝礼所に向けて、長い駐車場があります。

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つきあたりに右の拝礼所のほうに曲がるところがあります。

 

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拝礼する例の場所が見えてきました。

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宮内庁の建物が側にありました。
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用明天皇は、欽明天皇の子供です。兄の敏達天皇崩御の後に即位しました。欽明天皇が蘇我稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃にし、用明は蘇我稲目の孫になります。用明は崇仏派で王朝において仏教を公認しました。それが後の推古天皇以降の仏教隆盛につながります。

 

欽明時代は蘇我と物部の二大勢力体制でしたが、用明が仏教を認めたことで、廃仏派の筆頭である物部守屋は危機感を持ちます。蘇我氏との対立構造がますます深まっていくのです。

 

しかしその用明天皇の在位期間は二年もありません。即位してすぐ天然痘にかかり崩御しました。